11月11日「介護の日」にちなみ、なら介護の日では介護について理解と認識を深める活動・イベントを行っております。

親守唄・歌会2018 入選作品集

≪親守唄大賞受賞≫あの日のぬくもり(作詩・作曲の部)
≪優秀賞受賞≫いつまでも(作詩・作曲の部)
日だまり(作詩の部)
くちぐせ(作詩・作曲の部)
母さんのさざんか(作詩の部)
大橋一公「あの日のぬくもり」(作詩・作曲の部)

神社の境内が子供の遊び場だった頃
宝物はみんな 大きな木の下にあふれてた
あかね色の空 カラスの鳴き声
ひびいたら どこかの窓から
夕食のかおりがただよって
急ぎ足で家にかえると
母さんの笑顔が待っていて
そんな風に毎日は
ゆっくりゆったりと流れていた


今から思えば まだ若かった父と母
手探りで育てた
ぼくは初めての子供だった
月日は流れて 自分の息子をなぐった時
あの日のおやじが
手のひらの中でうずいた
生きる上で大切な事は
たぶん幼い日に学んでいた
遠い記憶の彼方から
愛の手を今もまださしのべる

自分しか見えず 二人を苦しめた若い日々
どうしてあんなにも
心が壊れていたんだろう
それでも信じて
見守ることしかできなかった
あの時の気持ちが
今頃になってよくわかる
もしもあの日に帰れるならば
思い切り優しくできるのに
今度は二人に返そう
あの日のあの時のぬくもりを



あの日のあの時のぬくもりを


作詩・作曲/大橋一公(東京都大田区・57歳)
 私が生まれた昭和30年代は、まだ子どもの遊び場は路地裏や神社の境内で三角ベースで野球をやったり、メンコやベーゴマで夕方暗くなるまで遊んでいました。今思うと、本当に温かいいい時代だったなと思います。今も私の心に焼きついている平和な風景です。
 私を産んだ母も19歳とまだ若く、無我夢中で育ててくれたと思います。家庭にあまり恵まれなかった母が、自分の分身を得たことはとっても大きな財産だったと思います。
 でもそんな可愛い息子も思春期になると何を考えているのか分からない男の子に変わり、ずいぶん父親ともぶつかりました。苦労して会社を大きくして、社会的にも立派な父は、いずれ一人息子の私を会社のあととりとして考えていたのかもしれません。
 でも私は勉強がキライで朝から晩までギターを弾いているか、学校をさぼって映画館に入りびたったり、仲間と朝まで遊んでばかりいる若者でした。

 

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村松正敏「いつまでも」(作詩・作曲の部)

「かあちゃん…」と泣く母を宥(なだ)め
薬飲ませる夕食の後
違(たが)えぬように五つの薬
壁に印を毎日つけた
あの薬は飲みかけのまま
テーブルの上に置かれ
母の帰りを待っています
いつまでも いつまでも


母さんは家にいたかったけれど
覚悟を決めて入院をした
八人部屋の入り口のベッド
着替えを持って 毎日会いに
あの部屋は病院の二階
帰り掛けに振り返ると
母が窓開け 手を振っていた
いつまでも いつまでも

母さんの声 耳に残る
「もう少しだけ生きられるかな…?」
病院食を残さぬように
口に運んだスプーンに載せて
あの日々は夏空に溶け
二度と戻らないけれど
母を忘れない 母を忘れない
いつまでも いつまでも


作詩・作曲/村松正敏(群馬県桐生市・66歳)
 二人の子どもを懸命に育て、優しくたくましく生きた母。闘病しながら最後まで精一杯生き抜いた母。母と過ごした日々、交わした言葉を歌にして、記憶の中に残しておきたかった。
 この歌を歌うとき、きっと母はどこかで聞いていると思います。「お母さんありがとう」の気持ちを込めて歌います。

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小島ひろ美「日だまり」(作詩の部)

真っ白い髪を うしろから
梳かしてやれば うれしそうに
ありがとうって ほほ笑んだ
あなたを乗せた 車椅子
おだやかな 日だまりが
小さな背中を つつんでる
昭和の匂い なつかしい
母と娘の 昼下がり


芽をふく土手の ふきのとう
思わず摘んで 手渡せば
思い出語り なつかしむ
あなたの手の甲 苦労じわ
あたたかな 日だまりが
労るように 撫でている
昭和に戻る 何気ない
母と娘の 昼下がり

色々あった 来し方を
今では笑い 話よと
いつものように くり返す
あなたの歩んだ 人生を
ささやかな 日だまりが
ねぎらうように つつんでる
昭和の匂い 愛おしい
母と娘の 昼下がり


作詩/小島ひろ美(大阪府貝塚市・68歳)
 母は父を送ってから長年、一人暮らしをして何とか農家を守っていました。
 だんだん足が悪くなり、病院の付き添い、買物、掃除、洗濯、食事など、時々実家に行き二、三日、傍で身の回りの世話を続けていました。
 現在は介護施設でお世話になっています。時々会いに行くのですが、お天気が良くて体調の良い日は、母の車椅子を押して外に出ることがあります。
 そんな時、高齢の母と過ごす何気ない親子の時間がとても貴重で愛おしく感じます。
 かけがえのないこの時がいつまでも続いてほしいという思いを込めました。

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赤司一博「くちぐせ」(作詩・作曲の部)

元気にしとるねと
いつもの口ぐせ お母さん
いつまでたっても
子供は子供と言われたものさ
うるさい親だと思ったことも
今では心の宝です
ごめんね母さん 長生きしてね
これから私の口ぐせは
元気にしとるね お母さん


しっかり食べとるね
いつもの口ぐせ お母さん
体こわさんと
こごとみたいに言われたものさ
けんかしたのもなつかしい
今では笑える思い出に
ごめんね母さん 困らせたけど
これから私の口ぐせは
しっかり食べとるね お母さん

ゆっくり歩こうね
いつもの口ぐせ お母さん
転んでしまうから
走っちゃだめだよと言われたものさ
人生教えるたとえみたいに
笑顔でやさしく言ったけ
ごめんね母さん 苦労ばかりで
これから私の口ぐせは
ゆっくり行こうね お母さん


作詩/赤司一博(長崎県佐世保市・62歳)
 母が入退院を繰り返し、小さくなっていく姿を見て、今まで私のために一生懸命尽くしてくれたこと、今度は私が恩返ししたいと思い、歌にしてみました。

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安井孝夫「母さんのさざんか」(作詩の部)

振りむけば あなたが其処にいるような
そんな気がして佇んでいた
いつもあなたに褒められたくて
頑張る私が此処にいる
薄紅色の山茶花の花
若き日にあなたが付けた白粉の匂い
あなたが好きだった山茶花の花が
今年も咲いたよ


はらはらと心に舞った その花は
母の優しい面影の花
いつもあなたが見ていてくれた
感謝いっぱい ありがとう
薄紅色の山茶花の花
遠き日に教えてくれた 思い出の花よ
あなたが好きだった 山茶花の花が
今年も舞ったよ

薄紅色の山茶花の花
若き日に あなたが付けた白粉の匂い
あなたが好きだった山茶花の花が
今年も咲いたよ


あなたが好きだった山茶花の花が
今年も咲いたよ


咲いたよ


作詩/安井孝夫(千葉県木更津市・74歳)
 私の郷里(岡山)の母は、昨年の秋に98歳で旅立ちました。いつも元気で健康的な母でした。私が2年前に帰省した時も、とても喜んでくれました。
 亡くなる一ヵ月ほど前、体調が急変し「介護の必要あり」と、弟夫婦がその段取りをした矢先に急逝しました。若い頃は、祖母の介護、親父が病気してからはその介護と、人の世話ばっかりの人生だったような気がします。
 花が好きで、いつも傍には花がありました。生け花もやっていました。亡くなる前は、短歌を詠んで私に送ってきました。ワープロで印字して返送するのを楽しみにしていました。
 母が生活していた部屋の外にはさざんかの樹があります。この樹は私が子どもの頃からありました。


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