11月11日「介護の日」にちなみ、なら介護の日では介護について理解と認識を深める活動・イベントを行っております。

親守唄・歌会2016 入選作品集

≪親守唄大賞受賞≫「もういいよ」(作詩の部)
≪優秀賞受賞≫「おかあさん」(作詩の部)
「万葉・子守唄」(作詩の部)
「お休みなさい お母さん」(作詩の部)
「母の手を握った」(作詩・作曲の部)
安井孝夫 「もういいよ」(作詩の部)

そうね そうなの そうなのね
私を見つめて 手話(はな)してる
もういいよ もういいよ
解っていますよ お母さん
荷物おろしていいんですよ

窓際(まど)に咲いてる野の花に
いつでも微笑み忘れない
もういいよ もういいよ
ゆっくり休んで お母さん
頑張らなくていいんですよ

雨が降る日も 風の日も
頑張り過ぎてた いつだって
もういいよ もういいよ
あの日聞いてた 子守唄
今度は私が歌ってあげる
 

作詩者:安井 孝夫(千葉県木更津市)
母は、私の郷里、岡山で弟夫婦と一緒に暮らしています。96歳です。
今は病気もせず平穏に生活していますが、若い頃は祖母、年をとってからは父の介護と、ひとの世話ばかりの日々でした。
長い間苦労してきた母に、もうゆっくりしてほしいという気持ちをそのまま書きました。

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畷 崇子 「おかあさん」(作詩の部)

おかあさん
鈴虫が今年も鳴きましたよ
「初鳴きやで」といっしょに覗いたあの日
昨日のように思います
あれ以来 もう何十年も過ぎましたね
おかあさん ありがとう

おかあさん
茶碗蒸しを時々作っていますよ
「しっかり食べや」と大きな茶碗で
蒸してくれたあの日
昨日のように思います
あれ以来 もう何十年も過ぎましたね
おかあさん ありがとう

おかあさん
トマトを今年も収穫しましたよ
「崇子の顔と同じ位やな」と
トマトを顔にひっ付けてくれたあの日
昨日のように思います
あれ以来 もう何十年も過ぎましたね
おかあさん ありがとう

おかあさん
ゴム入りギャザースカートを
縫ってくれましたね
「遠足に間に合ってよかった」と
鏡の前に立つ私に言ってくれたあの日
昨日のように思います
あれ以来 もう何十年も過ぎましたね
おかあさん ありがとう
おかあさん
炊きたての子芋は大好きですよ
「崇子しっかり持って渡してきてや」
お鉢いっぱい隣の家へ届けたあの日
昨日のように思います
あれ以来 もう何十年も過ぎましたね
おかあさん ありがとう

おかあさん
おかあさんを思い出していますよ
浮かべていますよ
めがねの奥の優しい目
まゆをつり上げての怖い顔
汗 ひび割れの手 柔らかい肌
白い割烹着 菊作り
日暮れ時までの畑仕事などなど

おかあさん
おかあさんは 皆が仲良く暮らせよと
皆が元気で暮らせよと
皆は大事な一人ひとりだと
おかあさん ありがとう

星をじっと見つめています私
あっあの星はお母さんの星だ
おかあさん ありがとう

作詞者:畷 崇子(奈良県吉野町)
母は優しく強い人でした。そんな母を思い出し、浮かんでくるなつかしさや有り難さを書きました。
母の介護の後は姉を介護しています。姉の介護から、本人がどれだけ頑張っているかが伝わってきます。
介護される側の気持ちや有り様を少しでも理解したいと思うとともに姉から学んだことを大切にしていきたいと思っています。

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岡西通雄 「万葉・子守唄」(作詩の部)

夕焼けの空 チョウを追い
ころんで泣いた レンゲ畑
なにもお返しできず かんにんえ
あの日押してもらった 乳母車
今度は押させてください 車椅子
ねんねんころ ねんねんころ 石舞台
苦労話しは 山とあろ
ねんねんころ ねんねんころ 飛鳥川
水に流そよ お母さん

こんど花に生まれても
あなたと咲きたい 二輪草
杖つき歩く父と 照れ笑い
上げたタンポポ一輪 髪にさし
少女にかえってゆく お母さん
ねんねんねんころ 長谷寺よ
いいのよ石段 負ぶわせて
ねんねんねんころ 三輪山よ
セミもうれしと 啼き止まず
私の名前 忘れても
生まれた駅舎(えき)は 覚えてた
あぁ何年ぶりでしょう 吉野川
あの日作ってもらった 「柿の葉寿司」
今度は食べてください お母さん
ねんねんねんころ 桜(はな)イカダ
天川 洞川 越えてきた
ねんねん万葉 子守唄
あなたに贈る「ありがとう」

作詩者:岡西通雄(東京都町田市)
夫が経営する繊維工場で、深夜まで働き詰めで脳出血で倒れ、車椅子になった私の姉を介護する私の姪からの感謝の詩です。
苦労を笑顔と優しさに変えて強く生きてきたお母さん・・・そろそろ重荷を下ろし、優しい父とこれからも仲良くおだやかな余生を生きて欲しいという姪の気持ちを込めました。

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川上さち子 「お休みなさい お母さん」(作詩の部)

今日もまた 五時間かけて会いに来た
脳梗塞で倒れて十年
この二、三年は眠ってばかりいる
お母さん さち子です
呼びかけるとふっと寝顔がゆるんで
笑ってくれたように見えた
ああ わかってくれたのだな
遠くから会いに来た甲斐があった

十七歳で結婚して 十八歳で出産
私には青春時代がなかったと
よく言っていた
あの戦争の日々の中で
あの戦後の困難の中で
病気の父を抱えて
六人の子供を育てたのだ
ガスも水道も電化製品も無い暮らし
一日中家事に追われていた
風呂は井戸水を
バケツで何十杯も運んだのだ
実家の田植え お茶摘み 稲刈りを
手伝って食糧をもらった
夜中にふと目をさますと
賃仕事の和服を仕立てている母がいた
米櫃がすっかり空になり
味噌も醤油も切れている日があった
「お母さん どうするの」
「何とかなるでしょう」
六歳の私に
あっけらかんと笑ってみせた
がんばって がんばって
働いて 働いて
私たちを育てたお母さん
あなたのがんばりで
私たちは育ったのだ
私たちは生きてこられたのだ
もう頑張らなくてもいいからね
充分 充分すぎるほどがんばったのだから
今はゆっくり休んでください
いい夢を見ながら
ゆっくり ゆっくり 寝てください

呼んでも答えない母の枕元で
淋しさを噛みしめながら
母の苦労を噛みしめながら
母のありがたさを噛みしめながら
小さくなった母の手を撫でている

作詩者:川上 さち子(大阪府東大阪市)
母は83歳で倒れ、2006年11月21日に93歳で死去しました。今年の11月21日で10年です。その年に母の詩を発表できることをうれしく思います。
母の時代は産めよ殖せよの時代でしたから子だくさんです。夫を戦争で亡くしたり、母のように病気の夫を抱えたものも・・・今から思えばどのようにして切り抜けてきたのかと頭が下がるばかりです。
母を通してあの時代の女性のこと、戦争というものを考えてみたかったです。

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野崎和俊 「母の手を握った」(作詩・作曲の部)

母の手を握った 何十年ぶりで握った
小さくてしわくちゃの 母の手を握った
冷たくて悲しいその手を
両手で包んで握った
思わず涙がこぼれて 母の手に落ちた
不思議そうに 母が笑った

母の髪を撫でた 何十年ぶりで撫でた
白髪がいっぱいの母の髪を撫でた
昔は黒くて自慢の面影しのび撫でた
思わず涙がこぼれて 母の手に落ちた
驚いたように母が見上げた


母の顔を触った 何十年ぶりに触った
皺がいっぱいの母の顔に触った
人生の喜び悲しみ 刻んでいる顔に触った
思わず涙がこぼれて 母の手に落ちた
子供みたいにはにかんだ
 

作詩・作曲者:野崎 和俊(長崎市)
母は今年9月30日に90歳でなくなりました。この詩は亡くなる前、一ヵ月くらいの思い出です。
父は40歳で亡くなりました。母は3人の子供を抱えて苦労の連続だったと思います。男の人にまじってツルハシやシャベルで道路工事の土方や水道工事の小取などをしながら、化粧することもなく毎日働いていました。 母が人並みに暮らせるようになったのは65歳過ぎてからだったと思います。


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